2021年05月30日
バニスター代表の細谷正人が新たな視点でブランディングデザインに斬り込み、先進企業に取材する連載「C2C時代のブランディングデザイン」。今回からは番外編として、連載に大幅に加筆して発刊した書籍『ブランドストーリーは原風景からつくる』の内容を一部抜粋して紹介する。
書籍『ブランドストーリーは原風景からつくる』
書籍『ブランドストーリーは原風景からつくる』は、1972年に出版された奥野健男著『文学における原風景─原っぱ・洞窟の幻想』(集英社)から出発している。
特に建築界の中で名著とされる一冊で、著者が言う“原風景”とは“原っぱ”のことを表している。奥野はこの著書の中で文学者の作品には、イメージやモチーフを支える土台として自己形成空間が色濃く投影されていると論じている。それは、文学においてどのような意味を持つのかという視点で、文学そのものを総合的に捉えるために“原風景”を解析している。
島崎藤村の信州馬籠の宿、太宰治の津軽、井上靖の伊豆湯ヶ島、大江健三郎の愛媛の山中などのように、文学の軽やかなモチーフとも言うべき、どれも鮮烈で奥深い“原風景”を持っていると述べている。単に旅行者が眺める風土や風景ではなく、自己形成とからみあい、作家の血肉化した深層意識とも言うべき風景である。そして私たち読者は、その土地を知らなくとも自分の中にある風景を重ね合わせ、その情景をイメージしながら文学を読み進めている。
“原風景”は奥野によって言われ、その後定着した言葉である。“懐かしい風景”や“ノスタルジー”といった文脈においても使われている。『大辞林』では“原風景”とは「原体験から生ずる様々なイメージのうち、風景の形をとっているもの。変化する以前の懐しい風景。」とされている。しかしながら奥野が『文学における原風景─原っぱ・洞窟の幻想』で述べた“原風景”の意味は即物的ではないことが分かる。
この長編評論では、東京・山の手の都会育ちである奥野自身の“原風景”(自己形成空間)として子供の頃を振り返ると、“原っぱ”と“隅っこ”の2つが浮かび上がってくるという。“原っぱ”と“隅っこ”は、タイムトンネルのように狩猟採集の縄文時代に遡ったり、近未来の都市にイメージを広げたりしながら、子供の妄想の中でまるでSF映画のように繰り広げられるイマジネーションが掻き立てられていた場所である。その場所を“原風景”として、奥野が日本文化と文芸の本質を探っていることが興味深い。
奥野は作家固有の自己形成空間としての“原風景”が存在していることに触れており、このような文学の母胎でもある“原風景”は、その作家の幼少期と思春期で形成されていると語っている。記憶研究においても、まさしく“原風景”は個人の自伝的な記憶として主に幼少期から思春期にかけて形成されると言われている。
ではこれからの私たちにとって、その“原っぱ”とは、一体どこに存在するのだろうか? LINEやTwitterなどのSNSもしくはショッピングモールやコンビ二なのか。もしくは、現代の“原っぱ”は全く異なるものへと変貌してしまったのであろうか。
文学と同様にブランドも生活者の自己形成とからみあい、血肉化した深層意識とも言うべき“原っぱ”のような風景を、読み手である生活者の脳内につくり出すことができるのではないか。さらに“ブランドストーリー”は奥野の言う文学の中にある“原風景”のように、生活者の自己形成とからみあうことができるのではないか。そして、その中にブランドの可能性が賭けられているのではないかという問いを検証していきたい。
これからデジタル化が加速し、企業と生活者の接点が無限に拡張され、有形価値だけでなく、無形価値も同時に提供されていく中で、ブランドにおける“原っぱ”とは一体どこにあるのだろうか。私たちがその未来の“原っぱ”を探しだすことができ、そしてそれらをブランド・エクイティ(ブランドが持つ資産価値)として描くことができれば、消費者におけるブランドの長期育成を可能にするのではないかという考えを私は持っている。
ブランドにおける“原風景”に焦点を当てる理由は2つある。
第1は、デジタルでの接点が増加し情報過多である現在、ブランドの長期育成に貢献できるブランド再生や再認を行うための根源的な要素とは何かを明らかにしたいからだ。
そして第2は、企業や製品ブランドにおける視覚化されたブランド・アイデンティファイアなどのブランド要素がどのように生活者の自己形成に働きかけ、記憶の再生・再認を促していくのかというメカニズムを解明したいからである。なぜなら、ブランド認知やブランド・イメージの向上、ブランド愛着の醸成は、デジタル化が加速しても普遍的であり持続的なブランド・エクイティの構築につながるからだ。
DX(デジタル・トランスフォーメーション)時代の到来で言われているように、今後はデジタルデバイスを通じてデータが共有化され、生活者の個人的な記憶は画像や映像などでアーカイブ化できるだろう。AI(人工知能)によって解析された生活者の“原風景”を活用することで、未来における人の行動変容の予測は今以上に精度が高くなる。そうすれば、個人的な記憶を活用したブランド戦略の立案に生かすことができる。
記憶における先行研究では自伝的記憶とは、「自分自身の人生における出来事に関する個人的記憶」とされており、それは、必ずしも事実に基づいた印象的な個人的記憶だけではなく、概括的な記憶であることが多く、またその記憶は主観的に塗り替えられてしまうこともある。むしろ曖昧な記憶で、その個人的な記憶が何度も反復されることで、次第に自己の中で無意識的に自伝的記憶として遅効的に生成されていく。もし、奥野が言うように“原風景”が文学や芸術の価値を決定するのであれば、自伝的記憶の生成とブランド・エクイティにもつながる。ブランドの長期育成を行う上で大きなテーマとなり得る。
筆者の独自調査の結果では、ブランドの長期育成に有効な影響を与える自伝的記憶は、複数の類似の経験から構成された概括的な記憶であることが多く、必ずしも1回の経験に基づく鮮明な個人的記憶が必要ではないことが分かった。従来、ブランドのオーナーはインパクトのある広告や売り場づくりによって、生活者に対して衝撃的な記憶をつくることでブランド認知を向上し、ブランド理解もさせようとしてきた。
また、広告制作に携わる人の中には認知率を獲得するために、インパクトのあるメッセージで生活者の記憶に残る必要がある、とまだ言い続けている人もいるかもしれない。しかし、それらは誤解である。生活者の消費行動プロセスは、自伝的記憶を有効活用することで今よりも良い認知のサイクルを生み出す可能性を秘めている。
2014年に前著『Brand STORY Design ブランドストーリーの創り方』(日経BP)を出版した後、次第にブランドにおけるストーリー戦略や物語戦略の重要性について注目されるようになった。その理由としては、ストーリー戦略は消費者に対してブランドを理解させ、購入させ、愛着を持ち続けてもらうことが可能な好循環を構築できるという期待感が高まったからだと私は捉えている。しかし、残念ながらブランドにおけるストーリー戦略や物語戦略は、結局のところ何をすべきなのかが曖昧で、実践しにくいものが多いのも事実だった。
また、ブランド・ロイヤルティーやブランドの長期育成への関係性も抽象的であった。ブランドストーリーは、人の記憶の中につくられるブランドの有形無形の総和による総合的なものであるため、明確にそれらを掴みきることが困難なのではないかと考える。本書では、ブランドストーリーを考えるための、その入り口を明らかにしたい。
[本書第1章より抜粋]
『ブランドストーリーは原風景からつくる』の著者、バニスター代表取締役の細谷正人氏(写真/鈴木 陽介)
(日経クロストレンド2021年03月26日掲載の内容を転載しています。)